陸羽の「茶経」を読む、第3回目です。
今回は、陸羽の幼少時代について簡単に触れたいと思います。
陸羽の伝記について日本で出版された本に、成田重行「茶聖陸羽」(淡交社) があります。
その中で、陸羽の年少時代について書かれている箇所を引用いたします。
「『新唐書』『唐才子伝』によれば、陸羽は捨て子で両親ともわからず、龍蓋寺の智積禅師に拾われた、とある。
智積は唐代の有名な僧で、『紀異録』によると、代宗皇帝から皇宮に招かれ、特別なもてなしを受けたこともある人物である。
陸羽は年少よりその指導を受け仏教について学び、また智積は茶を好んだため、茶の入れ方を陸羽に教えている。」
(引用元:成田重行「茶聖陸羽」 22ページ)
陸羽は捨て子で、禅寺の僧に拾われて寺で育った、また、茶の入れ方も僧に習った、とあります。
龍蓋寺は、唐の竟陵県、現在の湖北省天門県に所在しました。
陸羽の生年は、通説では、開元21年(733年)と言われています。
(参考元:布目潮渢「茶経詳解」-『茶経』解説 淡交社 343ページ)
続けて引用いたします。
「『封氏聞見記』によれば、開元年間(玄宗治世の前半713年-741年)、泰山霊巌寺には降魔大師がおり、”禅を勉強するには寝ないこと、夕餉(夕食)を食べないこと、そして茶を飲むこと”と教えていた。
自分の茶器をもって茶を煮込んで飲むことも指導している。
これは、のどをうるおし、眠気を払うのに茶が重要な役割をもっていたためで、平均して毎日40-50杯を飲んだとされている。
禅の修行に大量に茶を用いたことによって、寺院は自ら茶の栽培、採茶、製造するところとなり、また寺での催事に茶会が行われたことにより、多くの名茶が生まれ、茶道具などが発展している」
(引用元:成田重行「茶聖陸羽」 86ページ)
飲茶の習慣は、一般の嗜好品として普及する前に、禅寺において盛んになりました。
若年僧の座禅の修行は、眠気と睡魔との闘いという一面もあり、夜通し禅を組むために、茶がたくさん飲まれました。
また、禅寺の建立される環境は、標高や天候、水質などそのまま茶樹の栽培にも適していたため、茶の生産、製造も寺の管理にて行われていました。
陸羽は、禅寺の僧に拾われて育てられた年少時代に、まさに茶摘みの段階から茶と関わって生活していたと言えるでしょう。
茶を作り、茶を入れ、禅のために茶を飲む、そんな風景が、幼少の陸羽にとっての日常でした。
「茶経」第6章第1節の
昏迷と眠気を払うには茶を飲む。
この一文は、そうした自らの経験を背景に、自然にしたためられた文章とも考えられます。
もっとも、陸羽は禅寺での生活には不満で、仏典よりも儒学(五経)を勉強したい、と僧に訴えたりします。
そのため、土方や掃除、牛の飼育等の過酷な労働を強いられ、11歳になるとついに寺を出て、芝居の一座に加わりました。
ただ、陸羽の意思がどうであれ、その幼少期において禅寺で茶と出会ったということは、「茶経」の著作、その茶観に、大なり小なり影響を与えていると思います。
ちなみに、陸羽の姓の「陸」は、>陸羽を拾った智積禅師の姓「陸」からとられています。
智積禅師は、陸羽が寺から去った後も、陸羽を寺に呼んで茶を入れさせた、と伝えられています。
それでは続きは次回で。
小林
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