陸羽の「茶経」を読む、第4回目です。
今回は、前回に引き続き、第6章第2節から読みたいと思います。
「茶が飲料になったのは、神農氏に始まり、魯の周公の時に知られるようになった。
(春秋時代の)斉には晏嬰があり、漢代には揚雄・司馬相如があり、(三国時代の)呉には、韋曜があり、晋代には劉琨・張載、わが遠祖の陸納・謝安・左思などの人があって、みな茶を飲んだ。」
(引用元:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 158ページ)
この節では、茶の歴史について簡略に触れています。
実は、『茶経』第7章においては、茶の史料が具体的に綴られていますが、この第6章第2節は、そのショートバージョンといっていいでしょう。
ここでは、文献に残っている固有名詞の列挙が主になりますので、ポイントを絞って読むことにいたします。
ここで注目したいのは、冒頭の「神農氏」です。
神農について、布目さんの注解を引用いたします。
「神農は中国古代の伝説的な三皇五帝の中の三皇の一に数えられ、人身牛首という記載もあり、農業神であり、また医薬の祖ともされている。」
(引用元:同上 158ページ)
「(司馬貢『史記索隠』の「三皇本紀」に)・・
”女禍氏没し、神農氏作る。炎帝神農氏。
姜姓。人身牛首、姜水に長じ、因りて以って姓と為す。
火徳の王、故に炎帝という。” とある。」
(引用元:同上 172ページ)
現代では、神農氏は、伝説・神話上の存在であり、その実在については不明、というのが常識になっています。
神農の著作とされる『神農本草』についても、実際の作者は不明で、後代の編集、筆写により伝承しました。
『神農本草』(『新修本草』)に収められている「茶」についての記述も、文献学上は、唐代の加筆とされています。
(参考元:布目潮渢「中国喫茶文化史」一、喫茶の起源 岩波書店)
なので、布目さんは、上記の本で、茶の起源を薬用とする説を否定しています。
お茶の歴史、その起源については、神農の伝説もあって、「中国で、昔は薬として飲んだ」というイメージを持ちやすいのですが、文献学的には、それは正しくない考え方になります。
なぜなら、「お茶を薬として飲む」という趣旨の文章が、実際には、飲茶の習慣が広範囲に普及してから後に書かれているからです。
もちろん、陸羽は<茶の起源=薬>とは書いていません。
ただ、『茶経』を読む限り、陸羽は神農が現存したと思っているようです。
これは、時代の制約によるものと考えていいでしょう。
どうして人が茶を飲むようになったのか、ということについては、今現在も、はっきりとした理由がわかっていません。
前回のブログでは、眠気覚ましのために、禅寺において茶が盛んに飲まれたと書きましたが、それより前には、道教の寺院においても、神仙思想と結びつき、茶が重宝されていたようです。
仙人のように空を飛ぶためには身を軽くしなければならず、茶は、身を軽くするための仙薬として信じられていました。
また、前漢の時代には、上流階級のなかで、茶が酒の代わりに飲まれていたと窺わせる記録が残っています。
(参考元:布目潮渢「中国の茶書」平凡社 4-5ページ)
ただ、残されたどんな記録をたどっても、<はじまりの一杯>に遡ることはできません。
ふぐ料理を発明した人が誰かわからないように、はじめて木の葉を熱して茶を飲んだのが誰なのか、ということも、なかなか解き明かせない謎です。
神話に託して茶の起源を語る陸羽は、ある意味、とても自然な書き方をしているのかもしれません。
それでは続きは次回で。
小林
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