陸羽の「茶経」を読む、第11回目です。
第8回-10回までは、餅茶の飲み方として、代表的な茶器「風炉」の説明などをいたしました。
今回は、第6章に戻り、続きの第4節から読みたいと思います。
「ああ天が万物を育てるのに、すべてきわめて巧妙なところがある。
人がつくるものは、ただ浅薄安易をあさっている。
風雨から遮蔽されているのは家屋であり、家屋は優れ極めている。
寒さを防ぐために着ているのは衣類であり、衣類は優れ極めている。
飲と食は飽くほどしていて、食と酒はみな優れ極めている。」
(引用元:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 164ページ)
この箇所では、陸羽の伝えたいことは、表面上、かなり明快に書かれています。
天の育てる万物は巧妙だが、しかし、人がつくるもの(家や服や食べもの)は、いかに優れていようとも、浅薄安易なものである。
このように、陸羽が自分の意見を感情的に表現するのは、ストイックな描写の多い「茶経」の中では、とても珍しいと思います。
布目さんは、さらにこう解説しています。
「天然自然のものでよいのに、衣食住に人工の華美を極めていることを批判し、暗に茶こそ天然の美味があるとを述べようとしている」
(布目潮渢「中国喫茶文化史」岩波書店 179ページ)
華美な衣食住への批判的なまなざしがあるのは確かだと思います。
しかし、「暗に茶にこそ天然の美味がある」とは、どうでしょうか?
茶が天に育まれたものなのか、人のつくったものなのか、陸羽はここで、はっきりと明言はしていません。
文意を反語として理解すれば、布目さんのような解釈は正当だと思います。
が、実際には、この節の要は、陸羽が反語でしか語れないということ、正にそのものの中にあるのではないでしょうか。
茶は、ある時は天のものでもあるし、ある時は人のものでもあると、私は考えます。
それは、天のものとも言えないし、人のものとも言えない、そういう二重性も孕んでいると思います。
茶が文化として普及、流通するならば、そこには、家屋や衣類や飲食飲酒と同様に、
天のものではない要素がどんどんと増えていくでしょう。
しかし、一方で、そうして広く普及した茶にも、天のものとしての要素は、幾許かなりとも備わっているはずです。
なぜなら、どんな茶葉も、自然の恵みの中で育まれるからです。
「ああ天が万物を育てるのに、すべてきわめて巧妙なところがある」
陸羽の嘆きは、そうした茶の矛盾にこそあるのかもしれません。
それでは続きは次回で。
小林
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