陸羽の「茶経」を読む、第6回目です。
今回は、前回に引き続き、第6章第3節から読みたいと思います。
「飲茶には粗茶・散茶・末茶・餅茶がある。
(粗茶は)切って作り、(散茶は)炒って作り、(末茶は)焙り、(餅茶は)臼づく。
瓶缶の中に貯え、湯を注ぐ。これを庵茶(えんちゃ)という。
或いは葱、姜、棗、橘の皮、茱萸(しゅゆ)、薄荷などを用い、これを百沸する。
或いは浮き上がらせて滑らかにしたり、或いは煮て沫を取り去るようなことをするが、これらは溝渠の間の棄水になるだけなのに、このような習俗が止まない。」
(引用元:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 160ページ 一部字体等変更)
内容を見ていく前に、先ず、同じ箇所の原文を引用いたします。
「飲有觕茶散茶末茶餅茶者。乃斫。乃熬。乃煬。乃舂。
貯於瓶缶中。以湯沃焉。謂之庵※茶。
或用葱薑棗橘皮茱萸薄訶※之等。煮之百沸。
或揚令滑。或煮去沫。斯溝渠間棄水耳。而習俗不已。」
(引用元:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 160ページ 一部字体変更)
※「庵」は、正しくは「疒」。「訶」は、正しくは「くさかんむり」あり。
ここは文意がやや読み取りづらい箇所かもしれません。
一文目においては、当時のお茶の種類を4つあげています。
そして、続く二文目以降は、その4種類の茶のそれぞれの製法を、動詞一語で簡略に説明しているようです。
・粗茶=「斫」切る
・散茶=「熬」炒る
・末茶=「煬」焙る
・餅茶=「舂」臼でつく
ここに対応関係があることは確かだと思います。
ただ、続くそれ以降の文章は(「瓶缶の中に貯え・・」以降です)
お茶の種類の説明を書いているわけではないようです。
陸羽は、ここで、当時の飲茶のいくつかの習俗を、結語で、「棄て水になるだけ」という言葉で、否定しています。
否定している飲み方は、以下の習俗です。
・瓶や缶に入れた茶にお湯を注ぐ庵茶(えんちゃ)という飲み方
・葱、姜、棗、橘、茱萸(しゅゆ)、薄荷等と混ぜ沸騰させる飲み方
・茶を浮き上がらせて滑らかにする飲み方
・茶を煮て沫を取り除く飲み方
よく読むとわかるのは、冒頭のお茶の種類についての文章と、それ以降の後半部の、飲茶の習俗を否定している文章は、わけて考える必要があるだろう、ということです。
粗茶/切る=お湯を注ぐ庵茶
散茶/炒る=葱、姜、棗等を混ぜ沸騰させる・・
・・・・
という風に、もし前半と後半で対応関係があると思って読んでしまうと、一つひとつの言葉の意味のつかみ辛さも相まって、一体なにが書いてるのかわからなくなってしまいます。
(というか、はじめ私がそう読んで混乱しただけかもしれませんが、、)
(お茶の種類について)
「飲茶には粗茶・散茶・末茶・餅茶がある。
(粗茶は)切って作り、(散茶は)炒って作り、(末茶は)焙り、(餅茶は)臼づく。」
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(習俗の否定)
「瓶缶の中に貯え、湯を注ぐ。これを庵茶(えんちゃ)という。
或いは葱、姜、棗、橘の皮、茱萸(しゅゆ)、薄荷などを用い、これを百沸する。
或いは浮き上がらせて滑らかにしたり、或いは煮て沫を取り去るようなことをするが、これらは溝渠の間の棄水になるだけなのに、このような習俗が止まない。」
(引用元:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 160ページ 一部字体等変更)
この節は、以上のように、主旨を二つにわけて読みます。
前置きが長くなってしまいました。
次回は、お茶の種類について触れたいと思います。
それでは続きは次回で。
小林
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