茶経1「飲ということの時の意義は遠いものがある」

茶経1「飲ということの時の意義は遠いものがある」

飲ということの時の意義は遠いものがある
2010年10月7日タグ: ,

布目潮渢「茶経詳解」

陸羽の『茶経』を読む 第1回目です。

初めに解説本のご紹介をいたします。

上の画像にあります「茶経詳解」(淡交社)という本を基軸に読んで参ります。

布目潮渢さんという中国史(唐代)のご専門の方が書かれた本で、原文、訳文、注解に、豊富な図版入りで『茶経』を解説されております。

このブログでは、訳文を部分部分引用させていただき、注解を参照しつつ、『茶経』の1節ずつをランダムに取り上げさせていただきます。

引用・参考の際には、上の図書以外にも、引用元・参考元を明記いたします。

それでは、読んでいきましょう。

今回は、第6章「茶の飲み方」の第1節です。

「翼があって飛び(鳥)、毛があって走り(獣)、口を大きくあけてものを言う(人)。

この鳥、獣、人の三者は、共に天地の間に生まれ、飲み食いして生きている。

飲ということの時の意義は遠いものがある。

渇きを止めるには水を飲み、憂いと怒りを除くには酒を飲み、昏迷と眠気を払うには茶を飲む」

(引用元:「茶経詳解」157ページ・字体一部変更)

飲む、ということについて、鳥と動物と人間を持ち上げています。

空を飛ぶ鳥も、地を走る動物も、口を大きく開けて喋る人間も、みんなこの世界に生まれて、飲んだり食べたりして生活している。

確かにそうですね。

ちょっと難しいのは次の一文です。

「飲ということの時の意義は遠いものがある。」

これは、鳥や動物のことなどに思いを馳せると、

この世界では遥か昔から「飲む」という行為がなされていたのだ、という風に感慨をしているのでしょうか。

もちろん、思いを馳せる方向は、昔のことだけじゃくて、

未来のことも含まれるかもしれません。

遥か昔から「飲む」行為はなされてきたし、遥か未来にも(天地に生命が存続するかぎり)

「飲む」行為はなされるであろう・・・

当たり前のことなのですが、時の経緯というものを巡っては、この当たり前のことが、当たり前ではなく感じられる、

そんな瞬間が誰にでもあります。

大樹の年輪を見るとき、海に太陽が沈むとき、星空を眺めるとき、

あるいは、やや偏った例ですが、死体の爪が伸びたりする事実を知るときなどです。

私のことを基点に「飲む」行為のことを考えても、私が生まれる前から人はお茶を飲んでいたし、私が死んだ後も、当然、人はお茶を飲み続けます。

「ああ、このお茶は美味しいなあ・・」という行為は、

延々と繰り返されるわけです。

ここの原文は、「飲之時義遠矣哉」です。

「茶経詳解」の注解によりますと、『易経』の「随之時義大矣哉」の箇所をもじったそうなのですが、

その『易経』の原典の意味についてはもっと難しくなってしまいそうなので、ここはとりあえずの宿題にいたします。

『易経』は陸羽の愛読書だったそうです。

飲むことについての感慨そのものと、『易経』のもじりということが陸羽の中で共存してこの一文になっていると思います。

それでは続きは次回で。

小林

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