だいぶ間が空いてしまいましたが、陸羽「茶経」を読む12回目です。
基本的に「茶経」第6章を読み進めるかたちでブログを書いていましたので、 今回は第6章の最後の段を読んでみたいと思います。
「さて美味で香り高い茶は、その碗数は三。これに次ぐ碗数は五。
もし座客の数が五人になれば三碗を行い、七人になれば五碗を行う。
もし六人以下なら、碗数を定めない。
ただ一人分だけ足りないときは、その雋永(ぜんえい)で欠けている人の分を補う。」
(引用元:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 167ページ)
ここは、どうもよくわかりにくい箇所です。
布目さんの解説でも、正直、上記の訳以外に解説らしい解説はなく、「理解の不十分な点を残した」と締めくくっています。
淡交社「茶経詳解」より前、1976年初版の東洋文庫「中国の茶書」においては、「茶会の常式は奇数の人と定めているが、 偶数の人の時はとくに定めがないということであろうか。」 と書いています。
原文もいたってシンプルで、どう意味を補えばよいか手がかりはありません。
先ず、「碗数」というのが、 茶器の数なのか、茶を淹れる回数なのかがわかりません。
どちらにも解釈できるように読めますし、 また、どちらも間違っているようにも読めます。
茶器(茶碗)の数と解釈すると、五人で茶を飲むのに三つの茶器、七人で飲むなら五つの茶器、六人以下なら茶器の数を決めないということになり、文意そのものは通るには通りますが、数を指定することになんの意図があるのか不明です。
五人で茶を飲むなら五つの茶器をそろえればいいのではないか という素朴な疑問が解消されません。
また、碗数を茶を淹れる(煮る)回数と解釈すると、五人で茶を飲むのに三回、七人なら五回、
六人以下なら回数を定めないということになり、これも意図のよくわからない文章になります。
そもそも五人のことで数を定め、しかし六人以下では定めないというのも、五人は六人以下なのだから土台矛盾な表現で、布目さんは、六人以下というのを偶数と解釈すべきかと言っていますが、そうすると、六人や四人の偶数で茶を飲むことと、三人や五人の奇数で茶を飲むことのあいだに いったいどんな違いがあるのかわかり兼ねます。
もしかしたら、陸羽のよって立つ「易経」の世界観に照らして、三、五という奇数になにか特別な意味を見ることができるかもしれませんが、「茶経」四章のように道具の数にこだわるのとは違って、茶を飲む集いの人間の数にこだわるのは、あまりニュートラルではないと思われます。
最後の文「一人分だけ足りないときは、雋永で補う」の「雋永」は、「第一煮の味のすぐれているところ」の意です。
茶器が一人分足りないのか、茶の分量が一人分足りないのかわからないのですが、その足りない分は、はじめの茶の一番美味しいところで補うということで、 ここもどうにも文意がつかみにくい箇所です。
補うためにはじめにとっておくのなら、それは足りないわけではありません。
足りているのでそれで補えるわけで、 本当に足りないのなら、補えないということになります。
原文は「但闕一人而已、其雋永補所闕人」です。
ここはもしかしたら、一人分の茶が足りない、というのではなく、茶を飲むべき人が一人足りない、ということかもしれません。
一人足りないなら、茶でその足りない人の不在を補おう、その人のために一番美味しい茶をとっておこう、
もしくは、その人のために美味しい茶を飲もう、と敷衍できます。
こう読むのなら、文意が成り立つのではないかと思います。
ただ、いずれにせよ、この段で陸羽がなにを表現しようとしたのか、いまひとつよく理解ができません。
また機会があれば考えてみたいと思います。
追記 布目さんの「茶経詳解」が文庫化されていました。Kindle版もあります。中国史や中国茶に興味のある方はぜひご一読を。
小林
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