陸羽の「茶経」を読む、第5回目です。
今回は、前回第6章第2節の続きから読みたいと思います。
「時に広まり世俗に浸みわたり、国朝(唐)に盛んになった。
両都(長安と洛陽)や荊州・渝州地方では、比屋(ひおく)の飲料となった。」
(引用元:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 158ページ)
この節では、唐の時代に、お茶が社会の中に広がってゆく様子が記述されています。
前回のブログでは、禅寺や道教寺での喫茶の普及について書きましたが、ここでは、一般の人々も茶を飲むようになってきたことが分かります。
比屋の飲料となった。
この「比屋(ひおく)」という言葉は、「軒なみ」という意味です。
(布目潮渢「茶経詳解」淡交社 160ページ参考)
軒なみに、街中のどの家々でも茶が飲まれるようになった、というわけで、飲茶が広く普及していった様子がとてもよくうかがわれます。
そして、茶が庶民の嗜好品になっていく、そのような背景の中で陸羽の「茶経」が書かれたということは、とても重要だと思います。
実際、「茶経」には、茶を飲むにあたっての当時のハウツー的な面もあり、茶の一般への普及が、自然にそうした記述を求めたとも言えます。
もし茶が一部の階層だけのものであったら「茶経」という本は書かれなかった(読まれなかった)かもしれません。
「荊州」は、今の湖北省の荊州で、陸羽の故郷に近い場所です。
「渝州」は、今の四川省の重慶市で、内陸の茶の産地です。
(布目潮渢「中国喫茶文化史」岩波書店 108ページ参考)
内陸産の茶は長江を伝い、陸羽の故郷や江南の諸都市へ、そして、長江から華北への大運河を伝い、黄河沿いの都・洛陽、長安へ、茶は嗜好品、必需品として、広い範囲に伝播したと考えられます。
また、飲茶の習慣は、漢民族だけでなく、北方の遊牧民族・回鶻(ウイグル)や、西方の吐蕃(チベット)にも浸透しました。
唐の時代、茶馬交易が始まっていたことが、漢語の文献に残されています。
(参考元:同上 213-216ページ)
一方、茶が商品として流通するのと相前後して、唐朝は、貢茶制度を茶農に義務化しました。
これは、皇帝へ茶を無償で献上する制度で、農民を大変に苦しめたと伝えられています。
また、陸羽の晩年には、すでに茶への課税が施行されました。
(参考元:成田重行「茶聖陸羽」淡交社 167ページ)
「茶経」は、茶についての多角的な書物ですが、貢茶制度や茶の税政、流通ルートのことなど
社会経済的な事柄については、直接言及されていません。
特に貢茶制度について、陸羽はどう考えていたのか、その真意を知りたい気もします。
それでは続きは次回で。
小林
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