陸羽の『茶経』を読む 第2回目です。
今回は、前回に続き、第6章「茶の飲み方」第1節の後半部分です。
「渇きを止めるには水を飲み、憂いと怒りを除くには酒を飲み、昏迷と眠気を払うには茶を飲む」
(引用元:「茶経詳解」157ページ・字体一部変更)
この箇所では、「水」と「酒」と「茶」の三つを対比する形で取り上げています。
この節の前半部では、前回のブログでも書きましたが、「鳥」と「獣」と「人」の三つが対比されていました。
しかし、その対応関係が、この後半部で論理的に展開されているというわけではないようです。
「空を飛ぶ(鳥)」「地を走る(獣)」「口を大きくあけて喋る(人)」
「渇きを止める(水)」「憂いと怒りを除く(酒)」「昏迷を眠気を払う(茶)」
それぞれの意味を考えても、前後に対応関係があるとは思えません。
なので、ここでは、三つを取り上げる、という文章の書き方が純粋に修辞的な意味合いで反復されていると考えていいでしょう。
そして、語られていることは、とても明快です。
喉が渇いたら水を飲み、鬱憤晴らしをするには酒を飲み、眠気覚ましにはお茶を飲む。
なんとも現代的・・・というよりも、「飲む」という行為の普遍性をあらためて感じることのできる一文です。
「飲む」という行為は、やはり、自然に根ざした普遍的な営みとしてあります。
ただ、注目すべきは、お茶についての箇所です。
「昏迷と眠気を払うには茶を飲む」
原文は「蕩昏寐。飲之以茶」です。
この「昏寐」を、布目さんの翻訳では「昏迷と眠気」と二項目に分けていますが、広義の解釈としては、「眠気/まどろみ」の意味に集約されます。
実際に、布目さんご自身も、前訳においては、「眠気」の一語で訳されています。
(参照元:布目潮渢・中村喬「中国の茶書」平凡社 東洋文庫289 88ページ)
眠気覚ましにお茶を飲む。
これは、非常に即物的なことを書いています。
『茶経』はお茶の「バイブル」なのだから、きっと高尚なことが書いてあるはずだと思っていると、ひょいと肩透かしをくらったような気持ちになります。
もちろん、お茶を飲む目的はこれだけではないはずですが、陸羽が意味もなくこの一文を書いたとも思えません。
喉が渇いたら水を飲み、憂さ晴らしには酒を飲み、眠気を追い払うにはカフェイン(茶)を・・・
これは、人の暮らしの経験則に基づいた事実です。
陸羽はここで、茶についての技術や思弁を論じているのではなく、「飲む」という行為にまつわる簡明で普遍的な事実を淡々と書き留めてると言えるでしょう。
そう考えるなら、この一文を読み解くヒントは、陸羽自身の経験に求めてもいいのかもしれません。
陸羽がはじめてお茶を知った時、はじめてお茶を飲んだ時、はじめてお茶を作った時、それはどんな時、どんな環境だったのでしょうか。
眠気覚ましにお茶を飲む。
この一文の意味を、陸羽の年少時代の伝記から考えてみたいと思います。
それでは続きは次回で。
小林
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